- 働く
- 移住
- 家族構成:単身
- 年代:20代
- 職業:会社員
いちき串木野市出身。高校時代までを地元で過ごし、福岡県の大学へ進学。卒業後は、福岡県の中学教員として9年勤務。結婚を機に地元にUターンして2年目。
【目次】
取材に伺った2月下旬、木之下さんの果樹園の倉庫は、いちき串木野市の特産品・サワーポメロの爽やかな香りに満ちていました。サイズごとに選別された果実がコンテナに収められ、整然と積み上げられた光景は圧巻。その香りは倉庫の外までふわりと広がっていました。


「収穫したのは2月上旬です。1ヶ月ほど倉庫で保管してから出荷します」
収穫後すぐに出荷するのではなく、一定期間寝かせることで酸味がやわらぎ、甘みが増すのだそうです。
「今年は晴れの日が多くて、収穫量は昨年よりも多かったです。……と言っても、戻ってきてまだ2年目なんですけどね」

そう照れくさそうに笑う木之下さん。現在は実家の果樹園で、みかんを中心に柑橘栽培に携わっています。
高校卒業後は福岡の大学へ進学し、その後9年間、福岡県内の中学校の数学教員として勤務しました。
「純粋に数学が好きだったんです。中学生のときの授業が面白くて、自分も教える側に回れたらと思いました」
教員という仕事の魅力は、何より“感動を共有できること”だったと振り返ります。
「卒業式や合唱コンクールでは、生徒と一緒に涙を流すこともありました。あの瞬間は、教員ならではでしたね」
経験したことのない競技の顧問を任された際は、生徒と一緒に練習しながら自分自身も成長できる喜びがありました。
やりがいが大きい一方で、教員としての毎日は多忙を極めました。 朝練があるため、まだ暗い時間に出勤。放課後も暗くなるまで部活動の指導。
土日も試合や練習があり、気づけば“50連勤”ということもあったといいます。
転機は、鹿児島県出身の女性との結婚でした。夫婦ともに教員・実家も県外という環境で、将来子育てができるだろうか・・・と暮らしを見つめ直すことがありました。
頭に浮かんだのは地元・いちき串木野市での生活。2023年4月、教職を辞し、いちき串木野市へUターンしました。
「もったいないという気持ちもありましたが、後悔はありません」ときっぱり。

木之下さんの実家は、50年以上続く果樹園です。農業に携わると決めたとき、両親からは反対もあったといいます。
「大変さを知っているからこそだったのだと思います」と木之下さん。それでも、その決意が揺らぐことはありませんでした。
現在、就農2年目。農業大学校で基礎を身につけ、日々の作業のなかで父から学び、経験を重ねています。

Uターン後、第一子が誕生しました。
早いときは夕方5時半に帰宅。子どもをお風呂に入れるのが日課です。
周りからは「思い切ったね」「よく決めたね」と、教員を辞めて就農したことに驚きの反応があるといいます。しかし、「教員をしていたら、正直ここまで子育てに関われなかったと思っています」と木之下さん。
お昼には自宅へ戻り、在宅ではたらく妻と食卓を囲む――。家族と過ごす時間が、確実に増えたといいます。
「太陽が出ているうちに働いて、日が沈んだら休む。人間らしいリズムですね。農業に関わるようになってから、季節の小さな変化に気づくようになりました」

暮らしを支えているのが、いちき串木野市の子育て支援です。0歳から保育料無償や子ども医療費無償など、経済的負担を軽減する制度が整っています。



「安心して子育てができる環境だと思います」
鹿児島市出身の奥様は、移住当初は知り合いがいませんでした。しかし、いちき串木野市の子育て支援センターを利用することで、子どもを持つ家庭とのつながりが生まれました。
「今では、家族で出かけると妻のほうが知り合いに会うことが多いくらいです(笑)」
制度だけでなく、人とのつながりにも支えられながら、いちき串木野市での暮らしがあります。
安定した教員という仕事を離れ、地元・いちき串木野市で就農という道を選んだ木之下さん。
その決断の先にあったのは、家族との時間を大切にできる暮らしでした。多忙だった教員生活から、自然のリズムに寄り添う毎日へ。生活のかたちは大きく変わり、家族と過ごす時間も増えたといいます。心身ともに健やかに過ごしている様子が印象的でした。

後編では、木之下果樹園での具体的な仕事や、これからの夢や目標について詳しく伺います。
また、いちき串木野市への移住を検討している方へのメッセージもお届けします。
この記事を書いた人:
とこ
生まれも育ちも鹿児島の1児の母。子育て奮闘中!寝かしつけながら寝落ちするのが至福の時間。食べることと喋ることが大好き。デジタル音痴ですが、人との交流を大切に、いちき串木野の魅力を伝えていければと思っています。